2022.01.06

藤原伊織 雪が降る

年末のご挨拶に、品物を少しお届けしたら、直木賞作家・藤原伊織さんの奥様・真知子さんから、お手紙とともに藤原さんの作品が届いた。
没後15年で再刊が続いているらしい。

「テロリストのパラソル」で、江戸川乱歩賞・直木賞をダブル受賞した平成のスター作家だ。

藤原さんと私(清左衛門)の出会いを作ってくれたのは、料理研究家の加藤美由紀さん。

加藤美由紀さんは、清左衛門をいち早く発掘して世に出してくれた方で、本格派の料理研究家として華々しく活躍する前は、電通に在籍、藤原伊織さんの部下として勤務していたんです。

美由紀さんが、清左衛門を紹介がてら、贅沢茶漬の小さいパックを藤原さんにプレゼントしてくれたところ、藤原さんがエラく気に入って「ランチご馳走になっちゃった!」ってことだった。

その後、美由紀さんは季節のご挨拶に定期的に、送ってくれて、そうこうするうち、藤原さんご本人から注文をいただくようになった。(ミーハーな私は、贅沢茶漬けのデビュー早々、今をときめく作家先生のお気に入りとなって本当に嬉しかった)

藤原さんは、「贅沢茶漬」を、ほんとに熱烈に愛用してくださったお客様でした。
奥様・真知子さんも「ほんとに好きだったよね~」って。

サントリー Quarterly

サントリーの広報誌「Quarterly」に贅沢茶漬けを書いてくださったことも。
その時のやりとりの電話で、なんか一気にお近づきになった記憶がある。

いぶし銀の脇役

ウイスキーの友として、洋では「ブルーチーズ」、和では「贅沢茶漬の穴子」をクールに絶賛してくださって‥。
いぶし銀の脇役… まさに清左衛門が目指している雰囲気を表現する称号をもらったように思った。
この一文は、ほんとに、清左衛門の宝物です。

さて、
私の記憶に間違いがなければ、2005年のある日、再生心斎橋そごうのこけら落としの催事「石原明子の美味散策フェア」に先立って顔合わせ的に料理研究家の石原明子先生、和田萬の大象専務と心斎橋の「もめん」で会食をしていた時、美由紀さんからの電話が鳴った。

静かな店から出て電話をとった。「ケイコちゃん、藤原さんが病気なの。食道がんだって。とりあえずお見舞に贅沢茶漬け送って」っていう内容だったと思う。

美由紀さんの動揺は手に取るように伝わったし、私も、かなりショックを受けた。

しばらくして。

日曜日(定休日)に、一人で事務仕事をしていたら、お店の電話が鳴った。

「清左衛門でございます」
「東京のフジワラって言うんだけど、シャチョウいる?」
なんとなく怖い人を想像した私は、とっさに事務員を装い居留守を使った。

「おりません‥」
「しょうがねえなあ。じゃあ注文!」
「お電話番号お願いいたします。」
03-0000-0000

パソコンに入力すると藤原伊織と出た。

「なんだ~、藤原先生ですね!」
「その、先生っていうのやめてくれない」

みたいなやりとりが始まった。

たしか、癌治療でお世話になった人へのお礼の品物の注文だったと思う。はっきりは覚えていないけど。
とにかく、最新の癌治療のはなしとか、話題はあっちへいったりこっちへいったり、かなりの長話を延々していたような記憶がある。藤原さんも私も間違いなく相当なおしゃべりだ。

当時、断食療法、自然療法などの代替医療に強く傾倒していた私は、「お医者さんの治療と同時に、食事とかも変えた方がいいですよ」みたいなことをお節介にも、ひたすら力説した記憶がある。そして、その辺にあったコピー用紙に手紙を書いて関連する書籍とかなんか手当たりしだい色々お届けしたような。たぶん黒煎り玄米とかもお届けしたんじゃないかなあ。

後日、美由紀さんから聞いたところ。

「藤原さんがね、ケイコちゃんには言うなよって、言われたんだけど…。色々送ってきたけど何にもやらないよって‥」

ご本人も、なんかの時に、電話でおっしゃった。
友達がアガリクスとか色々送ってくれるけど、とりあえず医学的な治療をしてから、どうしようもなかったら最後に試すみたいなニュアンスで…。

私は、今をときめくスター作家相手に、好き放題おしゃべりしているうちに、ほんとに親しみを感じるようになった。
内容は、かなりはっきり覚えているけど、ばっさり割愛。
とにかく、けっこう、電話でお話していたような気がする。

そうこうするうち、週刊誌に闘病記を発表された。
その記事で読んだ記憶なのか、実際に話をした記憶なのかが曖昧なのだけれど、とにかく藤原さんにとっては抗がん剤が地獄の苦しみだったらしくて、抗がん剤を打つくらいなら死んだ方がましだ、的なことを語ってらっしゃった。(いや、思い出した。やはり直接、電話で聞いたんだった。すごい表現をされていた…)

本当につらかったんだろうなあ。

亡くなる年だったと思う。
お正月、電話注文のトップバッターが藤原さんだった。

「注文!」

贅沢茶漬けの注文だった。
そういう注文の際のささいなやり取りだけでも、フランクな中に、ちらりと思いやりや優しさがのぞく人。
ハードボイルド作家、スマートでクールなはずなのに、爽やかに人懐こく、常に暖かい余韻を与える方だった。

藤原伊織 作品集

不思議なご縁を感じることもあった。世の中狭いなあ!っていうアレ。

私が敬愛する花田峰堂先生の書道店(心斎橋)へ言った時。
先生のご長男先生(この方も書家先生)が店番をされていた。

普段はご挨拶程度しかしないのに、なんかの拍子に、なんとなく自慢したくて、お話したのかなあ。

「(大阪出身の)直木賞作家が贅沢茶漬けをすごく気に入ってくれて‥」みたいな。

「直木賞作家って?」
「藤原伊織さん」
「高津高校の同級生だよ」
「え~っ!ホントですか?」
って展開になりました。

普段、厳格な表情で必要最低限のことしか話さない方が、表情をゆるめてものすごく嬉しそうに、親しみを込めて藤原さんのことをお話になったのがとても印象的だった。

「りいち(ニックネームかな。ご本名は利一)は、本当の天才! いつ勉強してるねん、て感じなのに、つねに断トツにできた。」って。
「ふらっと店に来て、パチンコで全部スッたから電車賃貸してくれって。それを、次の日、律儀に返しに来る、そういう奴や‥」

身近な人から、藤原さんの魅力が、ストレートに伝わった。

 

ご縁があるんだか、ないんだか。

藤原さんが、お元気な頃、東京の催事に来てくださったらしい。
らしいというのは後日、みゆきさんから聞いたから。
「ケイコちゃんに会いに行ったけどいなかった」って。
実は、その時の催事に限って、設営だけ行って、早々に甲子園に帰ってしまった。
私は、藤原さんに会えるチャンスを逃してしまった。

さて、藤原さんとの電話のやりとりは、ときおり続いたが、闘病していても、いつもスカッと明るくて、こっちが元気になる感じ。
それがある日、誤嚥性性肺炎をおこしたかなんかで、「もう口からは食べれないんだって」ってことを、珍しくちょっとなげやりなトーンで話された。それ以降、藤原さんの元気がすっかり無くなってしまったような印象がある。私の誤解かもしれないけれど、急に、どんどん衰えてしまったような。
食べることは、人間の力の根源なんだなあって本当に感じた。

電話をかけても、少しずつ、出られないことも多くなり、それでも律儀に掛け直してくださる藤原さん‥。

出先で、私の携帯がなり、出られなかった。
それが藤原さんからいただいた最後の電話となった。

私からの折返しの電話には出られず、ある時、真知子さんが出てくださって、
おそらく枕元で「北さんからよ‥、って囁いてくださった。

その後、どのくらい時間が経ったのか、全く覚えてないが‥
美由紀さんから電話が鳴った。

「ケイコちゃん、藤原さんが亡くなった。お葬式、伺うでしょ」って。

実は、私も母も、当時、少しでもできることはないかと、藤原さんのご病気のことで頭はいっぱいだったけれど、そうはいっても、実際には、一度もお会いしたことのない方。

私の躊躇を、一瞬にして感じ取ったのか美由紀さんは続けた。

「奥さんも来てあげてって思ってるって思うよ。」

こうして私は、一度もお目にかかったことのない藤原さんの告別式に参加することになった。

ほんとに愛のある告別式だった。
有名作家の方々、出版社の方々、学生時代のお友達が参列され、藤原さんがどれほど愛されていたのかがよくわかった。
そして、成り行きで、お骨上げにまで伺うことになった私‥。

藤原伊織 作品集

ご縁はあったには違いないが、生前は一度もお会いできなかったという不思議なご縁。

今となっては来世でお目にかかるしかない。
来世でぜひぜひ、お目にかかってミーハーしたい。

それまでに全作品、何回も読み直してしておこう!(意気込み)
ほぼ読書をしないこの私が藤原さんの作品だけは、暗唱するまで読みましたよって、あの世か来世で藤原さんに豪語してみたい。(一応、目標)

没後15年、藤原伊織作品をぜひ!

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